札幌 税理士の必勝法
「恋愛の本質は、女にとっては真剣になればなるほど、トルストイの『アンナ・カレーニナ』のように純粋に悲劇的なものだと思うわ」とドロシーは答え、シャンペンを口に運んだ。
「あなたはシニカルだね」とラリーは言い、彼女にシャンペンを注いだ。
「シニカルだからこそ、私は鉄道に飛び込んで自殺なんかしませんから」とドロシーは言い返し、シャンペングラスを飲みほすと「そういえば、ラリー、あなたはもしやフリー・メーソンかしら」と話題を転じた。
彼女はラリーの右手の小指の金色の指輪に触れた。
ラリーは指輪をはずして見せ、「これはベーカー奨学生に選ばれたとき記念に大学側からもらったもので、フリー・メーソンとは関係ないよ。
よく見てご覧、あの独特な模様とは違うでしょう」と一言った。
指輪にはハーバード大学の紋章が彫られであった。
ふたりの顔が近づいたところで、「本当ね。
私はねラリー、実は、将来年をとったら女性のためにフリー・メンシーズ(月経のなくなった女性の会)を組織しようと企んでいます」とドロシーはおどけて言い返した。
ラリーは噴き出して腹を抱えて笑い、しばらく笑いを止めることができなかった。
ラリーはおかしきのあまりナプキンで涙をぬぐいながら、「あなたがフリー・メンシーズになるまでにはあと二〇年はかかるだろうね」と言い、ドロシーは「そう期待させて頂きます」と返した。
ラリーは終始、上機嫌でリラックスし、ドロシーに優しかった。
彼女はそれが彼の本質なのか、それとも育ちのせいなのか、あるいはその両方か、想像をめぐらせた。
ドロシーはシャンペンのせいで食欲がなくなり、メインディッシュの半分を残してしまった。
「アイスクリームにブルーペリーをのせた『ラリーのデザート』も、もはやおなかに入らないわ」とドロシーは降参したように両手を上げて宣言したので、ラリーが笑い出した。
ふたりはルテスを出て、タクシーを拾った。
「あなたに見てもらいたいものがあるので」とラリーは五人丁目のアパートへ車をつけた。
「ベッドの横のはしごかしら」とドロシーは笑った。
「残念ながら違うのだ」とラリーは彼女の鼻のてっぺんを指ではじいた。
ラリーの満酒なアパートには人の気配がなく、きれいに整頓されていた。
「メイがいたころは人〇歳になるばあやが住み込みでいたのだが、すでに養老院に入ってしまった。
今となっては彼女の話す上海なまりの中国語が懐かしい。
ばあやは祖母の家の使用人だったけれど身寄りがないから、父がいっしょにニューヨークに連れてきた。
彼女のことばを聞くといつも祖母を思い出したよ」と言いながら、ラリーはリビングルームからライブラリーへ、ドロシーを案内した。
ラリーがライブラリーの明かりをつけると、中国のモダンアートを集めたメイのコレクションが並んでいた。
二〇枚近いコンセプチユアル・アートが一面の壁に、もう一面の壁には派手な色の抽象画が並んでいた。
「このコレクションを見てもらいたかったんだよ」とラリーは、ドロシーを振り返った。
「ほとんどはアリス・タンが集めたものだ。
僕は今までメイの手前、一言も言わなかったのだけれど、どう見てもアリスのテイスト(趣味)は本当にひどいと思う」と感嘆したように両腕を上げてラリーが言うので、ドロシーは思わず苦笑した。
「メイの所持品を処理したいのだが、これぽっかりはアリスの手前、捨てるわけにもいかないし、困っている。
何かアイデアがあったら教えてほしい」とラリーは言った。
ドロシーは少し聞をおいて、「あなたがオーガスト・ウォングに対してなさってくれたように、モダンアートのギャラリーに寄贈するか、コレクターに買ってもらうかしてはいかがしら。
アリスならコレクターを知っているかも」と提案した。
ラリーは「それはおもしろいアイデアだ。
でも、アリスだけに儲けさせることはないだろう」と、腕組みをして、少し考えてみようと言った。
ドロシーはシャンペンのせいでひどく眠くなり、家に帰りたいとラリーに言った。
「わかりました。
シャンペンの泡はあなたの食欲を削ぎ、しかも催眠効果があるということを覚えておくよ。
家まで送っていこう」。
ラリーはドロシーのコートをとり、それを着せるために彼女の後ろに回った。
ドロシーが腕を回し、コートの袖を通した瞬間、ラリーが後ろから彼女を強く抱きしめた。
ドロシーは白檀のようなラリーのにおいを嘆ぎ、彼の首筋にかけての滑らかな皮膚の感触に感嘆した。
「ドロシー、こんなことを言つては失礼かもしれないが、あなたがいてくれないとひどく寂しいんだ」とラリーは耳元でささやいた。
ラリーのコンシェルジェがタクシーを拾ってくれ、ふたりは車に乗り込み、ドロシーのアパートへ向かった。
ラリーは車の中で黙ってドロシーの肩を抱いていた。
零時過ぎの通りは空いていて、すぐに彼女のアパートに着いた。
寒いからこのままで、とドロシーは言い、「ディナーをありがとう、ラリー、おやすみなさい」と握手を求めた。
ラリーは彼女の手の甲にキスして「お休み、ドロシー」と言って、そのままアパートの中に去って行く彼女を見送った。
バレンタインデーから数日して、ドロシーは、スティーブ・ワグナーから、ファニー・ファンドが新規投資資金の受け入れと解約とを凍結したという悪い知らせを受け取った。
ファンドが一時的に外からの投資資金流入を中止するのは、ちょうど健康だった人が急に体調を崩して入院するようなものだ。
体調が戻るまでは日常的な活動は中断される。
これまでの運用を洗いなおし、必要な手術を施し、再び調子が戻るまでは公の場には出られない。
つまり、オープン・エンド型ファンドとしてルクセンブルク市場に上場していたファニー・ファンドは、運用実績が回復するまで一時的に基準価格の公表を凍結した。
投資家は入院中のファニー・ファンドからいかなる収益も期待できなくなった。
「香港の投資家にはすべて私のほうできちんと連絡し、対処しています。
あなたにご迷惑がかかることは今のところありません。
一応、これからも状況報告をします」と、スティーブの態度は一貫して誠実だった。
しかし、あれほどスティーブといっしょに投資家からのファンド・レイジングに奔走したのに、その本体のファンド自体が収益を生み出さなければ、運用会社から約束された手数料が払われる見込みはない。
すべての努力が水の泡になってしまう。
ヘッジファンドの場合、運用者の信義が問われ始めたとたん、信用という細い糸で結ぼれたすべての信頼関係は一気に崩壊する。
投資家は「問答無用」とばかりにファンドから資金を引き上げる。
運用者に協力を惜しまなかったプライム・ブローカーやアドバイザーもまた、手のひらを返したように運用者のもとを去る。
運用会社で働く従業員もいっせいに解雇される。
そして、最後には、惨めな姿をさらす運用者だけが投資家の前にひれ伏し、矢のように飛んでくる批判を浴びるのである。
ドロシーの場合、ファニー・ファンドへの信頼は切れたが、スティーブ・ワグナーに対する信頼は切れることはなかった。
彼女は、マーストリヒトでのアリス・タンの人物評、「まともなのはスティーブ・ワグナーくらいかしら」という一言葉を思い出した。
アリスの直感が正しかったことが証明された。
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